2015年2月28日土曜日

福岡県志免町 亀山古墳


写真を撮った日から随分と日数が経ってしまいましたが…亀山古墳へ行って来ました。

所在地:志免町別府2丁目98番2号

この亀山古墳は亀山八幡宮境内にあり、道もしっかり整備され「古墳を見に来た」というよりは「参拝へ来た」感覚で古墳の見学が出来ます。


看板の内容は…『この亀山神社境内には、1700年前に造られた亀山古墳があります。
大型石棺(石で造られたお墓)として貴重な資料です。
他に6基の石棺が発掘され、大切な祭り、祈祷(祈り事)もこの場所で行われ受け継がれたと考えられます。
志免町の財産として全町民で大切に保存しましょう。』と、書いてあります。

看板の横にある階段を登って行くと色々と見えてきました。


説明板は劣化して読めないですね…他のBlogにこの説明板がまだ綺麗だった頃の画像が上げてあったので、其処から説明板の内容を引用してきますと…
『石棺群
全ての石棺に1号墳と同じく朱が塗られています。
大きなものには大人が、小さなものは子どもが入れる大きさです。
1号墳の周りに寄り添うように4基あり、1号墳と親族関係にあったと考えられます。』と、書いてあったようです。

その石棺群。


この石棺だけ少し離れている気もしますが…

ぽつんとあるこの石棺も朱塗りの痕跡が消えてしまって水が溜まっていました。


残りの3基は、それこそ『寄り添うように』近くで並んでいたのですが…


こちらの小さな石棺には辛うじて朱塗りが残っていますが…もしかすると朱塗りをし直した?と、いう雰囲気が…

ちょろちょろと見ていると、亀山石棺についての説明書きを見つけました。


時代は弥生時代終末から古墳時代初頭。古墳好きな知人の話しだと
「弥生時代なら古墳ではなく墳丘」とおっしゃっておられました。
古墳時代に作られた古墳以外は墳丘というそうです。

これが1号墳。



中は朱塗りが消えて塗り直しをされたそうで(他Blog参考)、違和感のある赤さがテラテラと見えていました。

墳丘自体は直径13mの円墳だったそうです。
パッとしない感じではあったのですが、流石に境内の中にある為、とても居心地の良い場所でした。
指定史跡なので、触れたり近寄ってみたり出来ないのですが、それでも充分に楽しめました。

2015年2月26日木曜日

佐賀県杵島郡大町〜寄り道 編〜


大町煉瓦館へ向かう道中で、気になる道を見つけた為、予定とは違う道を進んでみました。

少し進むと碑石か墓石らしきモノが見えて来たので、それに向け歩いていましたら不思議な穴を発見。


少々、雑ではありますが埋められています。

近付き隙間を覗いてみましたら、ゴミが…


見た目よりは奥深い気もしますが…暗くて中の方がどうなっていたのか判りませんでした…

探索のしようもなかったので、先に進もうと思い少し進んだ所でもうひとつ…


こちらの方は綺麗に埋まっており、場所も場所だった為に近寄る事も出来ず…この謎の穴は一体なんなのでしょうか…?

更に登り道を行きますと、墓石がある場所へと到着いたしました。


比較的、墓石は新しいようです。しっかり管理も行き届いた墓地のようで、離縁墓地のようなものは見当たりませんでした。

墓地を出て更に坂を登り頂上へ着くとこの景色。


登り坂は少し辛かったですが、それに見合う景色。

すれ違う人達も親切な方が多く、ホッとする所でした。

2015年2月25日水曜日

佐賀県大町駅のSL


杵島炭鉱の変電所跡地を訪ねる前に立ち寄りました、大町駅横のSL機関車「29611号機関車」です。


塗装が随分と剥がれ錆びがきていましたが…
大正7年12月26日に製造され、昭和49年2月26日に廃車をされたようです(案内板参考)。


少し引いて反対側から全体を撮ってみました。

こちらは機関室の様子です。



火室には石炭の代理か…多くの石が入っていました。
蓋の部分など色々と触ってみると動く部分もあったので、引っ張ってみたり押してみたりと体験させて頂きましたよ。

炭水車寄りから1枚。


動輪と呼ばれる部分(1※ピストンによって駆動することで推進する車輪)が全体の高さから見ると小さい(案内板参考)そうです。
(1※はWikipediaから引用)

機関室から見える風景。


機関士さんや機関助士さんが見ていた風景はどんな風景だったのでしょうね。操縦が忙しく、それどころではなかった…かも?

帰り際に再び立ち寄ったところ、夕陽が当たり凛々しい29611号の姿を拝見する事が出来ました。


製造所        :大阪汽車株式会社
配属機関区 :昭和8年1月 直方機関区
                    昭和43年 後藤寺機関区
運転線区     :筑豊本線
                    田川線で石炭を輸送
(案内板参考)

佐賀県杵島郡大町の遺構?


先日、何時もの様にフラフラと散策へ出掛けて参りました。

知人から「保存されている煉瓦の変電所がある」と言う情報を頂いたので、佐賀県杵島郡大町へ。


この大町駅は新しくなったのかな…広くはありませんでしたが、とても綺麗な駅舎でした。駅を出て直ぐ右へ行くとSL機関車がありましたが、それは後日…

今回の目的地、変電所跡へ行く前に散策をしてきました。


これが何かを私は知らないのですが、とても大きな煉瓦の建造物…
手前には花壇を作る為の煉瓦があり、煉瓦の大好きな私としてはとてもよい眺めです。


橋脚の様にも見えますが…台座らしくもあり…上の方で均等に開いている四角い穴も気になりました。
この煉瓦の情報が書いてあるBlogを拝見させて頂いた所「杵島炭鉱の遺構」と、ありましたが…詳細は不明なままでした。

謎な煉瓦建造物を背に右手へ更に進むと、少し高台にネットの掛かった場所があります。


通り過ぎたのち、少しの違和感…振り返り…後戻りをしてよく見ると…


此処にも煉瓦!
視力が余りよくない方なので危うく見逃す所でした…
こちらの煉瓦も何なのか判らず…ただ、ネットの張ってある範囲は煉瓦のようですね。先程の大きな煉瓦建造物と何か関係があるのでしょうか…?

杵島炭鉱の遺構らしきをモノを見学した後、今回の目的地へと足を進めます。その道中に再び煉瓦‼︎


近くで見たワケではないので、この廃屋が何かは不明(不明なモノばかりで申し訳ない…)です…


この煉瓦の廃屋は使われて居ないモノの、奥にある建物には人が住んでいるようでした。

所々、寄り道をしましたが、それも追い追い書くとしまして…

やっと目的地へ到着です。


杵島炭鉱煉瓦変電所跡。今は大町煉瓦館として、色々なイベントに使われているようです。

外壁には電線が張ってあったのであろう跡が残っていました。


窓枠や扉は施設として利用する為、新しく取り付けたようでしたが、それ以外は原型を留めたままのようです。


「ご自由に御見学下さい」と書いてあったので遠慮なく中へ入ってきました。


内壁にも電線が張ってあったであろう痕跡があります。



壁は漆喰らしきモノが塗ってあったみたいですね…所々、それが剥げ落ちており地の煉瓦が見えています。
時間の流れを感じられる所がまた個人的には好きですね。

内壁をぐるりと一周、見渡していましたら、こんなものを発見しました。


【杵島礦業所第参坑建物配置圖】と書いてあります。
杵島鉱業第3坑と呼ばれる場所(地区?)の地図的なモノですかね…?

今ある大町駅とは駅の位置が違うようです…当時は「民間人を乗せる為の駅が無かった」と、この煉瓦館に置いてある資料にあったので…民間人を乗せる為の駅を作る時に移動したのでしょうか?

この煉瓦館には大町町史も置いてあったので、この杵島炭鉱に関して詳しく見る事が可能です。
周りは静かで椅子と机もあり、この日は少し寒かったのですがストーブも置いてあり…
とてもゆっくり出来る場所でしたので、今度は道中で寄り道をせずに訪れたいと思います。


2015年2月21日土曜日

福岡県朝倉市秋月散策


何年程か過去に秋月城址へ訪れた際、車を停めた場所から稲荷神社と思われる朱塗りの鳥居が、変わった位置にあり、ずっと気になっていました。

一昨年ほど前だったと思うのですが、再訪した時にその鳥居が無くなっておりまして…
今年に入り、また秋月城址を再訪させて頂いたので鳥居を確認してみましたら、綺麗な朱塗りの鳥居がありました。やはり変わった位置に。

どうすれば其処へ行けるのか…散策してみましたが結局、その変わった位置にあった鳥居へは行けませんでした。

その代わり…と、言っては可笑しいですが、近くに稲荷神社の御社様を発見しました。


この御社様へ向かうのも道がよく判らず…変な所から進入させて頂きました(スミマセン)。

倒れた竹の下に小川があるのですが、杉の木の奥に御社様へ向かう為の石が橋の様に置いてありました。


この小川は足を大きく一歩、足を出せば跨げる程に細い川ですが、凄く水が澄んでおり飲めそうなくらい綺麗でした。

本殿(?)へ近付いてみました。


朱塗りが所々剥げておりますが、雰囲気のある御社様。中には白狐様がいらっしゃったのでご挨拶してきました。

横からもう一枚。


見ての通り大きな御社様ではないのですが、周りの雰囲気に馴染んでひっそりと御狐様が見守って下さっているように見えました。



(※誤解の無いように…)よく神社や墓地には訪れるのですが信仰心は無いのです(ゴメンなさい)。ただ其処にある神秘的な、落ち着く雰囲気が好きなので。御神体になるモノへの興味や好奇心もありますが、信仰的なモノではなく「こんな感じなのかな?」程度に妄想するくらいです。

2015年2月17日火曜日

朝倉市秋月


今回は知人にお願いして秋月へ連れて行って貰いました。

桂川下秋月線(県道66号)を走っていると隧道が見えてきました。
しかも私の好む中に明かりがない真っ暗な隧道…


煉瓦造りでは無いけれど、こういう隧道も心をくすぐられます。


判りにくいかと思われますが…隧道の名前が右書きで「道隧月秋」と書いてあるのも、また美味しいです。


隧道の左側に何時頃、誰が作ったか書いてありましたが随分と文字が磨り減り読みにくかったです。昭和六年設工…かな?後は土木関係代表者名みたいです。

少し辺りを散策させて頂いた所、長崎街道へ続く道がありました。
詳しくはWikipediaにあるようなので検索して頂けると幸いです。


その長崎街道へ続く道の横にこんな看板がありました。

「秋月街道 涙坂
江戸時代秋月藩参勤交代この
秋月街道白坂越を最も利用
していた。
この位置は涙坂といい秋月城下を
見る最後の場所で江戸参勤に向かう
主人をここまで家族が見送り三年
間の別れを惜しんで涙を流したことから
「涙坂」と呼ばれるようになったという
この一帯に石畳・石垣・水路等がよ
く旧状をとどめ当時の秋月街道の
様子を偲ぶ事ができます。
平成九年六月達之」

看板をそのままに書いたので変な所で改行を付けています(こちらも文字が磨り減り読み辛かったので間違えがあるかもしれませんが…)。

秋月街道、隧道を後にし秋月城址へやってきました。


暫く来ない間に発掘調査をされているようで、この場所に何か他の建築物が出来るようです。

秋月城址へ来る度にこの場所が凄く気になります。


石積みが綺麗で川もあり好きな風景のひとつです。

登ってみました。


桜の枝が目前にきて少しばかり驚きましたが…水路が良く見渡せました。
足元には瓦が何枚も滑り止めの様に埋められていて注意していないと、つまづきそうでした。

「懸社 垂裕神社」は中へ入らず入り口だけを…


水路と石段、門に空…目に見えた素敵な風景がこの写真で少しでも伝われば幸いです。

こちらは城址へ向かう道中にある橋のひとつです。川へ降りて橋を撮ってみました。


逆光な上にゴーストが入ってしまいましたが…川の奥も綺麗な石積みがありまして、夏だったら川へ入って見に行くのにな…など思いました。

観光地を観光シーズンから外れた時期に訪れると、ゆったり散策が出来て観光シーズンでは見えない風景も見えてくるので、この秋月散策も有意義で楽しい時間を過ごす事が出来ました。

この場所は紅葉で有名な観光地ですが、桜の木も沢山あったので春もきっと綺麗だと思います。夏は川があちらこちらにあるので涼を求めても良い場所だと思います。

再訪し改めて秋月が好きになりました。

2015年2月15日日曜日

佐賀県船塚古墳(3)


佐賀県大和町の船塚古墳、散策記3話目です。長々とお付き合い頂きまして有難う御座います。

船塚古墳を少し高台から見てみようと、古墳から離れた所まで歩いてきました。

船塚古墳の周囲を径12m程の円墳があるとの事で、残っている円墳を目指しながら歩いていましたら…墓地がっ‼︎


最近、整備されたようで綺麗でした。この墓地については後日、書くとして…
奥の方に(判りにくいですが)船塚古墳。大正や明治、昭和…旧いモノでも江戸時代、鎌倉時代の墓石と、それよりももっと過去の墓が纏めて見えるこの場所はとても素敵でした。

墓地から少し離れた場所の、見晴らしが良いところで1枚。


ここから見ると後円部、くびれの部分と前方部がハッキリと見えて綺麗な前方後円墳だな…と、思いました。
この辺はみかん畑が多く、まだ上の方にも登れそうだったのですが…それはまたここへ再訪した時の為に、取っておく事にします。

当時は11基の円墳が存在していたようですが、現存しているのは7基の円墳(私が判ったのは6基でしたが)…殆どが動物避けの柵がしてあり、今回の散策で近付けた円墳はひとつだけでした(もう少し散策していたら他の円墳にも近付けていたのかもしれませんが…)。


登ってみると、盗掘の跡がありました。草が生い茂っており判りにくいですが…


中央辺りが窪んでおり、横から掘られた跡があります。
この円墳が船塚古墳の陪塚(ばいちょう)だとするのなら…やはり横穴式だったのでは⁇と、想像が妄想を膨らませてておりました。
難しい事は判らなくても、見て感じて想像するだけで充分に楽しめます(確証もない妄想ですが)。
写真に写っているビニールハウスの奥に船塚古墳があります。

船塚古墳は5世紀中頃の竪穴式石室で箱式石棺が2基、置いてあったそうです(※さがの歴史・文化お宝帳を参考)。

この円墳(船塚古墳の陪塚のひとつとされている模様)にも、土師器片(だと勝手に思っている石)が所々に落ちていました。

沢山の発見と遠い遠い過去が身近に感じられる前方後円墳と円墳(陪塚?)。
もし少しでも興味を持って頂けたのなら幸いです。