2015年7月16日木曜日

大分県に来た(2)宇佐八幡宮


大分県に来た(2)では宇佐八幡宮をご紹介しようかと思います。

この回では西参道の入口にあった説明書きを主に書く予定なので「説明文には興味がないよ」という方は(未熟者の写真では御座いますが)写真だけでも楽しんで頂けたら幸いです。

宇佐八幡宮
所在地:大分県宇佐市南宇佐2859
駐車場:有料。1回400円

駐車場を降りると直ぐ、由緒について書かれてある案内板を見つけました。


【宇佐神宮御由緒】
当神宮は四万社あまりある八幡宮の総本宮であります。
神代に比売大神が馬城の峰(大元山)に御降臨になった宇佐の地に、欽明天皇三十二年(五七一)応神天皇の御神霊が初めて八幡大神としてあらわれ、宇佐の各地を御巡幸ののち神亀二年(七二五)に亀山の一之御殿に御鎮座になりました。
また天平三年(七三一)比売大神を二之御殿にお迎えし、のち弘仁十四年(八二三)神託により神功皇后が三之御殿に御鎮祭されました。
皇室は我が国鎮護の大社として御崇敬篤く、特に八幡大神が東大寺大仏建立援助のため神輿にて上洛されたこと、また和気清麿公が天皇即位にかかわる神託を授かった故事などは有名であり伊勢の神宮に次ぐ宗廟、我が朝の太祖として勅祭社に列せられております。

と、書いてありました。

斜め前には鳥居があります。その鳥居の奥に見えているものは呉橋という橋です。
10年に一度の勅使祭で解放されるのみで普段は渡れないようですね(Wikipedia参考)。


鳥居を潜り近付くと…少々ローアングルから撮っていますが、このような感じになります。


宇佐八幡宮のホームページにある呉橋より色が綺麗なので、塗り直しされているのかもしれません。

呉橋の案内板もあったので、そちらも…


【呉橋】
寄藻川に架けられた神橋は呉橋と称せられ宇佐神宮西参道からの入口にあたるが昭和初期までこの通りが表参道であった。
創建年代は不詳で昔、中国「呉」の人が架けたと伝えられている。この様式は中津市の当宮旧摂社薦神社に見られるほかは全国的に少ない。
木造の廊橋で橋脚石造三基、幅三・四六m、長さ二四・六七m、向唐破風造、屋根は桧皮葺である。
元和八年(一六二二)細川忠利公が修築したものが現存するが明治九年、昭和十二年と修理が加えられ昭和二十六年頃に河川拡幅と堤防工事が施工されたためコンクリート橋が正面に取付けられた。
正安三年(一三〇一)に差遣された勅使和気篤成朝臣の御歌が残されている。
影見れば月も南に寄藻川
くるるに橋を渡る宮人
(県有形文化財)

こちらは呉橋を横から撮ったものです。


色々と頑張ってみたものの、橋の全部は入りませんでしたね…当然ながら門は閉じられておりました。

鳥居のすぐ後ろ(由緒案内の斜め前)には、前まで鳥居があったであろう残骸がありました。
この写真は由緒案内の前にある鳥居の残骸です。


こちらが対になる残骸(もうひとつの足の土台)で、鳥居跡についての説明文がありました。


【鉄鳥居(かねとりい)の沓石(くついし)】
現在の西参道に続く道は奈良時代以来、勅使参向等に使用されたので勅使街道と呼ばれた。呉橋前の参道入口には古くから鳥居が建てられており、既に十五世紀の絵図にも描かれている。
元文元年(一七三六)の火事で木の鳥居が焼失後、寛保三年(一七四三)に江戸の住人藤木平左衛門によって鉄鳥居が寄贈された。木部を青銅板で覆い沓石(礎石)の上に鉄製の輪をはめて固定した造りになっていた。
明治十三年の図面には左記の寸法も記されている。
桁行
一丈九尺六寸(約五、九m)
高さ
二丈七寸(六、三m)
宇佐神宮の鉄鳥居は多くの参拝者に親しまれたが、戦時中金属類回収令により供出され、今は沓石のみが往時の歴史を伝えている。

余談では御座いますが…
金属類回収令とは、日中戦争から太平洋戦争にかけて戦局の悪化と物資(武器生産に必要な金属資源)の不足を補うため、官民所有の金属類回収を行う目的で制定された日本の勅令だそうです(Wikipedia参考)。
武器を作る為に鳥居の鉄が使われるというのは…複雑な気持ちになります。



説明文だけであまり楽しめるような写真もなく長く書いてしまいました…スミマセン。今回はこの辺りで切り上げまして次回へと持ち越します…
興味を持って頂けたなら引き続き御付き合い願えれば幸いです。

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